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はじめに

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このブログはハッピーを求める私の気ままなお話です。夫はアメリカ人、長女・次女は日本生まれ、長男はドイツ生まれ。
英語があまり得意ではなかった私ですが、海外生活をそれなりに送り、子供たちの日米バイリンガルを目指しています。
もっと力を抜いてゆる~く生きていきたいという思いとは裏腹に、いつも何かしなきゃと余裕なし。半人前の私の日々の出来事をつづっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

2017年8月16日水曜日

心理的虐待は目に見えない

カウンセラーから、「あなたが両親から受けてきたことは虐待だった」
と言われたショックは大きいです。
でも、虐待だったという事実を私が認めることが、まずは心の回復への第一歩だとも言われました。

うかつだったのが、第三者からそう言われたことである種、認定されたかのような気分になって、親しくしもらっていた1人の方に話してしまったこと。

その方からは、「日本人にはありがちな感じがする。私も自分が悪いとよく思う。」と言われました。

そうか、やっぱり耐えられなかった私が悪いのか。
私が弱すぎたのか。
違う人間だったら問題にもならなかったのか。
自分が悪いのだと常に自責の念を持って生きていくべきなのか。
と、自分に対する疑問がまた沸々とわいてきました。


私は打ち明けることで彼女に何を求めていたんでしょうね。


カウンセラーにそのことを相談すると、文化的な背景はもちろん違うだろうけれど、あなたが受けてきたことは確かに虐待ととらえられます、とのことでした。
アジア圏の特徴として、心の内をさらけ出すことを良いこととされない文化の中では、問題はより複雑なものだろう、と。

そこで感じたこと。

心理的虐待は、心に深い傷を負っても体に傷ができるわけではないので他人からはわかりません。その度合いを自分で証明することもできません。
そして、虐待をしていたという両親が、社会的には立派できちんとした人間ということであれば、意識的でなくとも虐待はその陰に隠れてしまいます。

身体的虐待があっても、兄弟すら気づかないことがあるということを何かで読んだことがあります。
他人ならなおさら、虐待への理解は難しいでしょう。

誰かに助けを求めたい、理解してもらいたい、という気持ちが膨らんでくるのですが、本人ですらうまく説明のできない繊細な問題。“共感”というのは、同じように感じられなければ得ることも与えることもできないんですよね。

カウンセラーが言った、「事実を認める」というのは、自分が置かれていた状況を“私”が認めればいいのであって、他人に認めてもらわなくてもいいんです。

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